生きた公園と死んだ公園の比較分析

木村研究室 佃純輝

函館市の富岡町には、面積が広く、施設が豊富で、利用者で賑わう「富岡中央公園」があります。この公園から北に300メートルほど進むと「富岡町第1公園」があります。 この公園は富岡中央公園に比べて格段に小さく、施設も少なく、利用者はほとんどいません。その上、公園に隣接する溝にはレジ袋などのゴミが大量に投棄されています。 本研究ではその印象から、富岡中央公園を「生きた公園」、富岡町第1公園を「死んだ公園」と称しました。しかし、これは私の主観に過ぎず、各公園が実際に生きて・死んでいるのかは確かではありません。

面積が大きければ、施設が豊富なら、利用者が多ければ、生きた公園であるのか?
面積が小さければ、施設が少なければ、利用者がいなければ、死んだ公園であるのか?

本研究では、富岡中央公園と富岡町第1公園を対象に、人々のアクティビティを観察し収集したデータを比較することで、公園の生死を考察しました。 国土交通省は公園の配置について、量産体制から、再利用と再構築のステージに移行したと述べています。本研究は、既存の公園を見直すための一つの資料になることを目指しました。

研究活動から「生きた公園」とは人で賑わうも治安が良好であり、代わる代わる来園する人々の多様な目的を解消できる力量に満ちた公園であると考えられました。しかし、これはあくまでも理想です。 なぜなら、立地などの条件により、公園の形状は千差万別であり、富岡町第1公園のような小さな公園は人々に求められる要素を全て備えることは困難なためです。
したがって、上述した生きた公園は理想論として、公園に形状の差があることを考慮した上で、改めて公園の生死を考える必要があります。
観察では鉄棒が物掛けとして、大人専用の健康器具は児童の遊具として利用されており、雑草の引き抜かれた跡、砂場ではない場所に落書きなどが見られました。 これは利用者が公園環境を積極的に扱い、公園に多様性を創造していたことを示しています。 結論では、利用者がその多様性に満ちた用途を見いだせるような環境になっていることが公園の生死の印象形成に繋がっているのではないかと公園の生死の印象形成に繋がっていると推察しました。

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